「丞相、なぜ、岐山にこだわるのです。」
「仲達は、半分の兵力で、また、守りきると思います。」
「呉じゃ。岐山に出れば、広く戦略を望めるし呉が動くだけで蜀にとって有利な状況が本来は、できやすいのだ。長期戦も可能で、退路確保したまま、駐屯できること自体は、悪いことではない。」
(・・・また、私の実家が戦地になります・・・不況をかって家族が野党に殺されます・・・)
「兄者が呉にいると伺います。動いてもらえないのですか。」
「キンか。キンの役目は内政官だ。」
「それでは、呉で、出師の表を出せる人に働きかけるのが得策と思います。」
「呉の傾向は、利益だ。魏に勝てる状態になれば、呉は必ず動く。」
「はっ!私などが、言質を挟むに及ばぬ境地!感服いたしました。」
(・・・少ない兵力で行ってみたいものだな・・・)
※王と皇帝と地方豪族、それから天皇は外す。
王が乱立して皇帝が必要になったという話をうのみにはできません。
全て権力の話です。
諸葛孔明で有名な、
「出師の表」
いわゆる、地方豪族のいうところの、「出陣」です。
書面行為:(出師の表)
兵権は、皇帝に与えられた権利であるから、皇帝がその権利の代行を丞相に委任する。
王が乱立して、皇帝ができたといっても、皇帝に兵権があるのでは、王は皇帝に「出師の表」を提出しなくてはいけません。
また、皇帝領の防衛のために、その任にあたらなければなりません。
公平な裁判と、公平な税制度が、国をまとめるという理想のもと、中央の官吏が地方にきて、それらをすべて書面行為で行います。
これが、魏の考え方です。
それを、蜀王ではなく、蜀皇帝になりなさいと言って、劉備に見習わせたのは、諸葛孔明です。
地方の豪族は、役目だけ与えては、中央の官吏をいじめるだけです。
それを一国の権利として、兵権から与えるというのが、分権の考えです。
中央は一人の書面行為だけでは戦えません。
中央に役どころを置いて、集権的な国家にします。
英雄の出師の表に判をおして、気分良く勝っていただかなくては、集権になりません。
また、その人が負けた時に、代理でよいバランスをとれる人がいなくては、次の事態に困ります。
提督の列や、左大臣、右大臣の列というのは、良い集権のバランスをとるシステムです。
それで、兵権の書面行為というだけど、おそろしく、皇帝という呼び方は、大事になります。
国の目的は、統治で、誰かが従う機構がなければ、まず無理で、権力がバランスをとれてなくては、騒乱の元ができて、その火を消せないまま、人々が火中へ入ってしまします。
※玉璽(ぎょくじ)
皇帝の印で、物語で何度も盗難にあい、問題になる。
地方豪族が奪い、判を押すというのが、よくある話です。
※付加(Additionaly)
戦国絵巻が好きな人の気持ちがよくわかりますが、現代戦においては、兵器の殺傷力そのものや戦術そのものが人道に反します。
国と行政とするならば、国の人が対外行事で、人権で主張しなくては国政に対して不利益を被る事になります。
ところが、それは、殺人事件などが起こるという状況を加味しません。
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